福岡高等裁判所 昭和24年(つ)960号 判決 1950年2月07日
被告人
白水太市
主文
原判決を破棄する。
被告人は無罪。
理由
控訴趣意第二点について。
原審第二回公判調書中の被告人及び証人田中國夫の各供述、被告人提出にかかる坂井德松に対する告訴状(檢第十二号証)中の記載被告人に対する檢察事務官作成の第一回供述調書(檢第十三号証)中の被告人の供述、白水勝美に対する檢察事務官作成の聽取書(檢第五号)中の同人の供述を綜合すれば本件事実関係は坂井德松は被告人がその子勝美をして掛賣りした酒、蒲鉾代金の支拂方を再三請求させたのを不満に思い昭和二十三年十一月十一日午後八時半頃醉余被告人方に赴き挨拶もせず被告人の坐つている同家店舖六疊の間に上り込み、被告人に対し「白水、お前は金の請求ばかりするが、当り前の事をしているか」と大声で怒鳴り立てるので、被告人が「他人の家に來て挨拶もせず這入つて來て大声を出しているが酒を飮んでいるなら又來い」と二度も帰るように云うと、坂井は「酒は飮んでないぞ、お前は知らん風をするな、自分で不正をしているのが分らないか、俺が云うて聞かせる、お前は酒を賣つて取引高印紙をやらないで、代金ばかり請求するな」と云うので、被告人が「取引高印紙はお前は知らない、それは取引が済んでやるのだ、金も拂わずにお前にやるか」と反駁するや、坂井は「何をつ」と云い樣いきなり後の酒瓶箱の上にあつた煙管を取り上げ、被告人の頭を目がけて毆りかかつて來たので、被告人はうまく体をかわしたので肩に当つたが引続き二回目を打つて來たので、之を回避すべく立ち上がる時に左手で坂井の胸の辺りを突いたところ、同人は後ろに顛倒し、その背後にあつた酒瓶入れの木箱で後頭部を強打して負傷したというのであつて、本件が双方対等な立場における普通の單なる喧嘩爭鬪ではなく、坂井の不法な云い掛りであり被告人は本氣で坂井相手に喧嘩する氣はなかつたので同人がいきなり煙管を執つて毆りかゝつて來るということも被告人の全く予想外であつたことは以上認定の経緯に徴し首肯しうるところであるから、坂井の右毆打行爲は身体に対する急迫不正の傷害であつたと云わなければならぬ。そうして被告人が右傷害に対して之を回避するため立ち上がりながら坂井の胸の辺りを左手で突いたことは、被告人の予期しない突嗟の侵害の下、吾人の自衞本能の上からも又何人を被告人と同一の情勢下に立たしめる時右以外の挙措に出ることは期待できないところであつて被告人のかゝる反撃行爲は当時の情況下防衞のため止むを得なかつたものと云うべく、之を以つて侵害者に対する多大の反撃とは云えないであろう。若し被告人の右反撃が一瞬時おくれて採られた場合を想定するならば、恐らく被告人は坂井のため煙管で頭部か顏面を毆打せられ、傷害を受けたであろうことは想像するに難くないであろう。既に被告人の右反撃行爲(毆りかゝつて來た坂井の胸を手で突いたという)が急迫不正の傷害に対する防衞上止むことを得なかつた行爲である以上、之がため坂井が後ろに顛倒し運わるく背後にあつた木箱で後頭部を強打して負傷したとしても被告人がその結果までも予見しておつたという証拠のない本件の場合(原審は坂井の後方に瓶入箱等の併置してある場所において後方に押し倒せば其等により傷害を受くべきことがあるのは普通人が通常の場合予見し得べきことだと説示するが、被告人は坂井を殊更に後方に押し倒したのではなく、同人の侵害を避けるためその胸の辺りを突いた丈であることは前記認定の通りであり又被告人が原審第二回公判廷で述べた被告人方の店の配置及坂井と應対した時の双方の位置を指示説明した図面(記録第二十四丁表及第四十丁)より考えても坂井が後ろに倒れたからとて背後にあつた瓶入箱で頭を打つて負傷するということは普通人が通常の場合予見し得ることだと論定することは無理であろう)その予見しない結果から逆に被告人の前記反撃行爲を目して防衞行爲としての必要程度若くは相当度を超えた多大の反撃行爲であると解すべきものではない。果して然らば被告人の本件所爲は正当防衞と認むべきであつて、原判決は本件事実の認定を誤まり、延いて刑法の正当防衞の規定を適用しなかつた違法があることとなり、この違法は判決に影響を及ぼすこと勿論であるから、他の論旨に対する判断を俟つまでもなく到底破棄を免れない。そこで刑事訴訟法第三百九十七條に從い原判決を破棄した上同法第四百條但書を適用し左の如く自判する。
被告人の本件所爲が正当防衞に該ることは前説示の通りであるから同法第四百四條第三百三十六條前段刑法第三十六條第一項に則り被告人に対し無罪の言渡をすることにする。
以上の次第に依り主文のように判決する。